昭和49年10月16日 朝の御理解



  御理解 第67節
 「何事も釘づけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」
                                                                                 これは釘づけではないと云う事は、そこに留まっておってはならないと言う風に感じますね。もう限りなく信心は進めて行かなければならない。新たな展開を願って行かなければならない。何時までも子供であってはならない。何時までも幼稚園であってはならない。矢張り、幼稚園から小学校。小学校より中学校という風に、段々育って行くと云う事。そう云う事が、私は釘づけではない。自由いうならば奔走に信心が研修され、又は体得さして頂いて、極まりなく信心が進んで行かなければいけない。
 先日でしたけど『五次元の世界と言う事を頂きました。先日もその事を色々私は一次元がどう言う事か。二次元がどう言う事か分かりません。大変難しい事ですから分かりませんけれどもまあ一次元、二次元、三次元位までの話は聞きますけれども、五次元という世界。先日月次祭の夜に遅うまで、先生方話ておりましたけれども、五次元の世界と言うのは、生神金光大神の、境地を言うのであろうと言う様な話をした事でした。
 例えばこれは私の御理解ですけれども、一次元に住んでおる時には、矢張り難儀は難儀と見ておった。困った事は困った事だと見ておった。信心が言うならば分かり、少し進まして頂いて、二次元の世界に住まわして頂く様になると、その難儀と思うておった、その難儀が難儀でなくておかげの元。又は神愛。神様がおかげを下さろうとする働きと云う風に見ておった。それが三次元、四次元、五次元というのですから、もう限りがないです。と言う様に、信心はそのように進んで行かなければならん。
 今朝方不思議な事があった。私枕元に何時も水差しをおいてあるんです。もう晩目を覚ます度にお水を頂きますから、所が今日私がお目覚しのおかげを頂いて、お水を頂こうと思うて、ちょっと盆の上にあがっておる、水差しを見ましたらね、小さいきびす位に見えるんです。玉露を入れるきびすと云うのはね茶だしです。こんなに小さく見えるんです。こげな不思議な事があるだろうかと思うておった。今朝のこの御理解を頂いて見るとです。例えば大きい物でも小さく見える程しに。
 私は大きくなっておるなあと感じました。お互いの信心が何時までも、信心のある者も信心のない者も、同んなじ様な思い方とか考え方。それでは一つも進んでいないわけです。信心のない者が腹がたてとる時に、こっちも一緒に腹を立てとる。信心のない人は腹を立てるのが、それは当り前と言う様な事があります。そりゃ腹を立てなさろう。腹を立てるのが当り前。けれども少し育った者、少し信心が分かった者から見ると、むしろその事に対して、お礼を言わなければならない程しのものであるという事。
 何年何十年信心しても、一っつも信心のない者と、ある者との変りばえのしない人がある。結局おかげおかげと言うて、おかげばかりを追い求めておるから、そういう事になるのです。信心を求めないからです。又信心を頂きたい、分かりたいと願わないからです。ただおかげだけを願うからです。これではね、言うならね何時までたっても、子供が育たない様なわけですから、どうしょう。
 自分の子供の中に、いつも五つか六つくらいの知能程度でね。一つも言うならば知能でも体格の方でも、育たないとするなら、初めの間は中々むずらしか、可愛いらしいと言うけれども、とばっかりは言うておられんのです。何時までも五つ六つくらいの知能程度しかないというならと同じ事です。神様を悲しませる。親を悲しませる様な事ではいけません。矢張り信心が育たなければいけません。
 樺目合楽を通して言うなら、合楽の信心が二十五年間どの様な、言うならば過程、どの様な段階をおうて、合楽が育って来ただろうか。合楽の信心がどの様に育って来ただろうか。しかもその育って来ておる段階段階においてです。お互いの信心者信奉者がです。どれ程に育って来たであろうか。これは本気で思うてみなければいけません。昨日御祝詞の作成をさして頂いとります時に、若先生が「今度御本部から頂いてきた御本を見られましたか」と言う。
 「いやもろうて来た事はもろうて来たばってん、まだ見とらん」と言うたら「あれには合楽の教えが、沢山載っとりますよ」と言うんです。「あら、そげな事じゃったね。ならちょっと見せてんの」と言うたら、若先生が持って来ましたら、成程もう合楽で私が神様から頂いた御教えが、沢山載ってるんです。ついこの頃までは、合楽の信心は間違っている。合楽の信心は、金光教の信心じゃない。といわば言われて来た合楽ですけれども。最近では私の言うておる事を、いややっぱり本当だ。
 合楽の生き方が本当だという風に、段々見て下さる様になって来た。有難い事だと思います。しかもつい最近頂いたばっかりの御教えが載っておるのです。少し読んでみましょうかね。これは甘木の初代、又は玉水教会の初代、湯川先生。それから高橋正雄先生あたりの、当時日本一と言われなさった先生方の教えが、一緒に載っております。その中に合楽の教えが沢山出ておる。有難い事ではある。
 成程信心は釘付けではない。ついこの頃までは言うならば異端視されたり、又は間違いと見られたりしておったものがです。本当のものとして取り上げられて来る。これは今合楽で言われておる合楽示現活動。これはもう今の合楽の、最先端のこれはあり方なんです。だからそういうあり方も、又合楽示現活動と言った様な言葉もです。もうこれは他に言葉の使い様がないのですよ。
 合楽という言葉を使うと、どうも皆が抵抗を感じますから、何か他に良い言葉はないだろうかと思いますけれども、どんな言葉をしてもないです。示現という言葉もです。もうどんな言葉よりも素晴らしいんです。参画すると言った様な言葉でもです。もうどの様な素晴らしい言葉をもって来ても、それに匹敵する言葉がない程しなのです。合楽示現活動に参画するという事は、まだ、そういう所までは行ってないけれども、つい最近の御教えが、次々と出ております。「人力に見限りをつけ、神力にすがれ。神力自ら湧く」皆様方、心新しく覚えておられると思う。つい最近の御教えですよね。
 「咲くまでは、草と呼ばれる野菊かな」
 「小さな喜びを見逃さない」
 「天を仰いで、地に感謝せず」
 「拝まれようとするより、人を拝める人になる事」
 「人を裁いている時は、自分も裁かれている」
 「驕こりがましい事をすれば、必ず身の破滅です。身分不相応は、天地の法則に違反するからです」
 「心情とは心を磨くとか改まるという事と同時に、いつも神様を思う事です」
 「真の修行の第一は、自然の働きを不足を思わず、素直に受けて立つ事」
 「真の修行をせずして、真の信心は生まれぬ」
 「悪い事を見て、自分まで引き込まれぬよう、強い信心が必要である」
 「人の不信心になるのを見て、自分まで不信心になる人がある」
 「心が曇れば、おかげは映らぬ」
 「自分の苦しい体験で、人も苦しかろうと分かるだけではならぬ。それを祈りに。そして、何か助かる事のために、行動に現わさなければならぬ」
 「真の信心には、生き生きとしたおかげが伴う事」
 「実意丁寧の化け物にならぬよう、心掛ける事」
 「自分がおこる事は、進歩している証拠であるから、そこを大切にし、一つ一つ聞き、又、体験によって、分からなければならん」
 「神は絶対のもの。そして、疑ってはならぬ。疑問と疑いは違う」
 「信心をさせて頂いてる事を、この上もない有難い事と思い、日々頂く教話を、和賀心で練り出していく事」
 「腹がたつ時は、自分の思い上がりと知れ。自分は悪くないと思い、これで良いと思うところに、腹がたつのである。」
 「家庭生活の円満こそ、信心の始まり」
 「信を受け、ために、神様を粗末にしてはならぬ。粗末にすれば粗末にされ、大事にすれば大事にされる」
 「真で成就せぬものはなし。成就せぬ時には、真が欠けておると思え」
 「心配は、神様に預かって頂く。お取次を願うただけで、お取次を頂いて、かえらないところに心配が話せる」
 「一升の徳利に、一升詰めておけば何も入らぬ。それを八分ばかりしか入れておかんから、これが有難いと言うては入れ、これが有難いと言うては、入れる家に一升になってから、真の有難いのが分からぬようになる」
 「天にも昇る気持ちで喜び勇んでやらせて頂くと言う事なら神は後押しをしてやる」
 「遊ぶのも、元を稼ぐにあり。稼がずに遊ぶから、苦を積むのじゃ」
 「カニの親が横へ行くから、子が横へ行きます」
 まあだ全部読んでしまうと、この中からだいぶん出て来るだろうと思うです。以上の様な御教え皆さんが一遍も二遍も聞かれた事のある御教えばっかりだと思いますけれどもね、と言う様に是が何年か前であったら、もうこれはもう間違った教えとしか言わなかったでしょう、合楽で云う事は間違うとると言うて、もうてんでその相手にもしなかったでしょう。それが例えば、これはあの掲示板の資料として道しるべに作られたものです。ここでは掲示板がありませんけれども。
 他の教会でよく表に掲示板なんかを出してそれに記すのに適当だと言う訳なんですね。それは言うなら信心が釘付でない証拠です。今にです合楽示現活動と言う様な事が、本当に分かって来たからです。もう金光教の中心。今の本部でこれは絶対取り上げなければおられない程しの、素晴らしい事だと思うんです。まあだこれには、しかし合楽という言葉があるから、なかなか難しい事でしょうけれどもね。
 けれども合楽を使わずして、示現活動に参画と言った所で、意味をなさないのです。と言うようにもっともっと段々本当の事を、私共が分からして頂く。いや私共が育って行く。おかげを頂いて釘付けではないのですから、限りなく何処までも進展に、進展を重ねて行く所の育ちに育って行く所のおかげをです。それこそ一次元から二次元へ、二次元から三次元の世界。
 そして五次元の世界にでも住まわして頂ける程しのです。私は信心を身に付けて行きたいものだ。もうこれが本当だとしてです。もう十年も二十年も、その事に固執して、その事に捕らわれて、信心が一つも進まない人達が沢山ある。それが嘘ではないけれども、それが小さい。本当ですからおかげも矢張り小さい。愈々言うならば、今合楽で言われておるのは、それこそ世界が相手地球が相手。
 世界総人類の、言うならば助かりと言う様な願いをもってです。愈々光輪の輪が言うならば、光輪の世界がです。愈々和賀心時代がです。現わされ示されて行く所のおかげを頂いて行く為には、もっともっと変わって行かなければならないと思う。どういう風に変わるか分からないけれども楽しみである。心がはずむ、そういうおかげに、そういう信心にです。遅れない様に、お互いの心の中にも、釘付けではない信心を身に付けて行かねばいけないと思いますね。
   どうぞ。